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アジアンタムブルー
最初にこのことばに接した時の印象は、たいへん色感的で余韻のある美しいものだった。朝の光に輝くグリーンのアジアンタムが、朝日の淡い青色に包まれていくような爽やかさを感じさせていた。しかしそれはチョット違っていた。ブルーは色彩ではなく、気持ち的憂鬱。つまりアジアンタムブルーとは、「アジアンタムの憂鬱」という意味なのであった。
「なぜかわからないが一度ちりちりと丸まり始めたアジアンタムは、最終的には元には戻らない。結局のところ爆弾は(栄養剤のこと)死を先延ばしするだけで、アジアンタムの根源的な憂鬱を癒すことはできないのである。これを差しこみ始めると、生気をとり戻すこととしおれることをしばらくは繰り返し、やがてそのサイクルは徐々に縮まって、そしてある朝突然アジアンタムはサイクルのうちのひとつ、生気を取戻すことを放棄してしまうのだ」と、この小説「アジアンタムブルー」の著者大崎善生は書いている。
「憂鬱の中からうまれてくる優しさ―略―そう、その中からしか生まれてこない、苦しみもがきながら、身をよじるように、体の一部分がねじきれるような痛みの中からしか手にすることのできない優しさ」と、死を宣告された恋人葉子への優しさを語る著者の眼もまた優しく鋭い。創造することの「創」が「傷」であることは、芸術の根幹に触れるものであろうし、憂鬱の中からうまれてくる優しさもまた同根なのだと思う。
しかし、「アジアンタムブルーを乗り越えた株だけが、冬を越え、活き活きと生きていく。そうなればこっちのもので、その後は二度とアジアンタムブルーは訪れない」と、葉子の言葉として彼女の恋人山崎の語る言葉は、実際にそうだとしても、前言とは明らかに矛盾するものである。間違いなく葉子の死を感じとっている山崎、葛藤は勿論としても死を受け入れている葉子の生と死はこの小説の主題であり、正に前言通りの生き方なのであるから。透明に重なるこの微妙な矛盾は、若しかしたら著者が与えた優しさなのかもしれない。アジアンタムは枯れてお仕舞いだとしても、「痛みの中から手にした」人の思いや生き様は、死を越えてなんらかのかたちとして「その後は二度とアジアンタムブルーは訪れない」ものとなるのだろう、忘れてはならない希望としても・・・。
横道にそれるが、この小説の中で大変共感する場面に出会った。
「自分の撮った写真にあれほど大袈裟な非難を浴びているのに、葉子にはまったくといっていいほど動揺する気配がないのである―略―それは自分が撮った写真への揺るぎない自身なのだと僕は思った。自分の写真が万人に受け入れられるものではない、そして写真とはそういうものであると熟知しているように僕には見えて仕方なかった」。これは著者の自分の小説への思いから来たものなのだと思う。多分創作に関わる人に、共通する思いだともいえよう。多くの欠点を有していても、例え多くの人に受け入れられなくても、自分の作品へのこういった思いの支えとなるものは、「憂鬱の中から生まれてくる優しさ」と同じ、「創という傷」であるのかもしれない。
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