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徒然随想
絵の話、読んだ本や観た映画のこと、時々下手な俳句・・・気の向くままに

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2010年08月16日(月)

毎日暑いですね
残暑 お見舞い申し上げます







2010年07月19日(月)

七月の空

  

  八月でも 六月でもない 七月の空












2010年07月03日(土)

アジアンタムブルー

 最初にこのことばに接した時の印象は、たいへん色感的で余韻のある美しいものだった。朝の光に輝くグリーンのアジアンタムが、朝日の淡い青色に包まれていくような爽やかさを感じさせていた。しかしそれはチョット違っていた。ブルーは色彩ではなく、気持ち的憂鬱。つまりアジアンタムブルーとは、「アジアンタムの憂鬱」という意味なのであった。

 「なぜかわからないが一度ちりちりと丸まり始めたアジアンタムは、最終的には元には戻らない。結局のところ爆弾は(栄養剤のこと)死を先延ばしするだけで、アジアンタムの根源的な憂鬱を癒すことはできないのである。これを差しこみ始めると、生気をとり戻すこととしおれることをしばらくは繰り返し、やがてそのサイクルは徐々に縮まって、そしてある朝突然アジアンタムはサイクルのうちのひとつ、生気を取戻すことを放棄してしまうのだ」と、この小説「アジアンタムブルー」の著者大崎善生は書いている。

 「憂鬱の中からうまれてくる優しさ―略―そう、その中からしか生まれてこない、苦しみもがきながら、身をよじるように、体の一部分がねじきれるような痛みの中からしか手にすることのできない優しさ」と、死を宣告された恋人葉子への優しさを語る著者の眼もまた優しく鋭い。創造することの「創」が「傷」であることは、芸術の根幹に触れるものであろうし、憂鬱の中からうまれてくる優しさもまた同根なのだと思う。

 しかし、「アジアンタムブルーを乗り越えた株だけが、冬を越え、活き活きと生きていく。そうなればこっちのもので、その後は二度とアジアンタムブルーは訪れない」と、葉子の言葉として彼女の恋人山崎の語る言葉は、実際にそうだとしても、前言とは明らかに矛盾するものである。間違いなく葉子の死を感じとっている山崎、葛藤は勿論としても死を受け入れている葉子の生と死はこの小説の主題であり、正に前言通りの生き方なのであるから。透明に重なるこの微妙な矛盾は、若しかしたら著者が与えた優しさなのかもしれない。アジアンタムは枯れてお仕舞いだとしても、「痛みの中から手にした」人の思いや生き様は、死を越えてなんらかのかたちとして「その後は二度とアジアンタムブルーは訪れない」ものとなるのだろう、忘れてはならない希望としても・・・。

 横道にそれるが、この小説の中で大変共感する場面に出会った。
「自分の撮った写真にあれほど大袈裟な非難を浴びているのに、葉子にはまったくといっていいほど動揺する気配がないのである―略―それは自分が撮った写真への揺るぎない自身なのだと僕は思った。自分の写真が万人に受け入れられるものではない、そして写真とはそういうものであると熟知しているように僕には見えて仕方なかった」。これは著者の自分の小説への思いから来たものなのだと思う。多分創作に関わる人に、共通する思いだともいえよう。多くの欠点を有していても、例え多くの人に受け入れられなくても、自分の作品へのこういった思いの支えとなるものは、「憂鬱の中から生まれてくる優しさ」と同じ、「創という傷」であるのかもしれない。








2010年07月02日(金)

HP更新しましたが・・・・・

 7/1にHP更新しようとしましたが、FTP転送が上手く行かず、まっさらなFTPソフトを使って先ほどようやく更新が終わりました。PC側で削除した画像ファイルが転送途中に、「フォーマットエラー」。殆どが大文字小文字の違いくらいで直るのですが・・・INDEX以外全て削除して再転送しようとしましたが、無いファイルのエラーでそれも叶わず、違うFTPソフトを使ってなんとかの状態です。

「アジアンタムブルー」は夜にでも書いてUPします。









2010年06月27日(日)

お知らせ
第三回 ビエンナーレうしく

に「鳥帰る」出品しています。

期間:平成22年6月27日(日)〜7月9日(金)

会場:牛久市中央生涯学習センター

です。

7月1日頃までに、久し振りに
HPの更新予定してます。「ビエンナーレうしく」
の作品も、そのとき紹介します。


http://www.all-ushiku.jp/trend/news/index.php?a=disp&toretate_id=1084

アクセス等
http://www.city.ushiku.ibaraki.jp/section/chuuou/biennial/main.htm









2010年06月11日(金)

少年時代


夕暮れて 家路滲ます つつじかな








2010年05月23日(日)

五月の風


春風は 時を待たせず 吹かれいく こころのせても ゆくえも知れず








2010年05月06日(木)

花喰い鳥

 昨年の12月、知人に誘われて世田谷のボロ市に行った。骨董市巡りは大好きで、ここの骨董市は、以前世田谷美術館でのワイエス三代展を観に行った時、偶然出合ったことがある(ボロ市だったどうか、確証はないが・・・)。覗きたかったのだが、時間が無かったのか、友人に遠慮したのか寄らずじまいで、何時かは行ってみたいとずっと思っていた。

 さすがに歴史のある市、様々な骨董屋さんが商店街の細い路地裏まで、所狭しとテントの波が続き、ニュースで報道されるほど賑わっていた。こういう雰囲気は本当に好きで、例え混雑していても何故かのんびりした安らぎを覚え、都会の目眩のする人混みとは全然違う温かさを感じられるのがとても心地良い。

 印判のお皿、木製の菓子型、着物の端切れ・・・どこの骨董市でも目にするものばかりで、なかなか目ぼしいものには出会えない。しかし魚釣りのとき、浮きが突然すつと動く出す瞬間の興奮を、どこかに待ちわびる期待感のようなものが、張り詰めた緊張感の中にではなく、ゆったりとした時間の中に在るのが、骨董市を散策する醍醐味なのかもしれないと思っている。

 なかなか目ぼしい物はないなぁ〜と思っていた矢先、観たことの無い小さな鳥の置物が目に入った。口ばしに丸い異物のようなものが付着していたので、気になって手にとったら、間髪いれずに店主と思しきおじさんが、「それは花喰い鳥だよ、正倉院にもある有名な文様だよ」と聞かされた。骨董市には随分足を運んだのだが、恥ずかしながらこの時初めて知ったものだった。

 「花喰い鳥」という語感は私にはとてもいい響きのものだった。「花を喰らう」と、言葉通りに理解すれば、害鳥のように感じるひともいようが、私は直感的に旧約聖書の中にある「ノアの箱舟」の話を思い起こしていた。ノアが放った小鳥がオリーブの枝をくわえて来て、洪水が引いたことを知ったという話しである。これは某有名インスタントコーヒメーカの商標にもなっており、その話を店主に話してみたが、笑ってそれは知らないな、と云われてしまった。後でネツト検索してみたが、思ったとおりこの花喰い鳥は、ササン朝ペルシャの強い影響を受けているらしく、終には旧約聖書にまで辿り着くように思えた。

 話は変わるが棟方志功の作品に「華狩頌」という作品がある。馬に乗った三人の狩人が、天と地と海のものを射ようとしているような図柄なのだが、良く観ると彼らは弓も矢も持ってはいない。殺生ではなく、華を美として狩るとの意なのであろう。「花喰い鳥」もまさに心は志向の版画の通りであり、極めて美的な図柄なのだと思う。「花喰い鳥」が、鳳凰や鶴など良いことの前兆を知らせる「瑞鳥」であることは、まさしくその証でもあろう。

 どんなに詰まらない小説でも、また難解で解からない書籍であっても、そのなかに常々なんとなく思っていた、つかみ処のない感情や思いを、ある形にしていてくれる一行に出会うことがある。それは文学に接する楽しみでもあるが、それと同じように今回の骨董市でも、この「花喰い鳥」に出会えたことは、ただそれだけでとても貴重で、嬉しい体験であった。しかし私はこの花喰い鳥を手に入れられなかった。大きさが5センチも無かったと思う、もう少しだけ大振りで形の良いものが欲しかったのだ。しかし、これまで出会わなかったもの、終に目的のものを探すことは出来ず、元に戻るには遠過ぎて、食べ損ねた大判焼きと同様、チョッピリの後悔が残ったのだった。(取り急ぎに付き、後日改稿予定)








2010年05月05日(水)

明日か明後日に・・・

 「花喰い鳥」の話を書こうと思っていたのですが、午前中絵を描き、昼過ぎに完成と自らに言い聞かせ(先日もそうだったけど)、いつもの如く一区切りのアトリエ掃除を始めました。

 暮れの自画像展、コンクール、公募展、次のコンクールとこのところ絵三昧でした??。積もりにつもったゴミを片付け始めました。午後ちょっとした買い物に出かけ、さて書こうと思ったのですが、今度は気になっていた、自室に溜まった山のような郵便物や様々な資料の整理を始めたら、もう止まらなくなってしまいました。

・・・と言うわけで、「花喰い鳥」の話は明日以降にでも・・・










2010年04月17日(土)

「現代の美術展 茨城県の9人」でのトークショー
 
  2/28から3/14まで、「現代の美術展 茨城県の9人」という企画展が、ふれあいの里ギャラリー夢で開催された。3/6にトークショーが行なわれ、自作について少々語った。先日思いもかけず、その要旨が送られてきた。自作について話すには何の準備もいらないので、自然体で会場には向かったが、このシリーズの最後の作品二点でもあるので、その時思っていたことを(実際の内容よりかなり多いですが)、ここに記して置きたいと思います。

  私の作品制作の根幹は、童話であり絵本の世界です。「葉っぱのフレディ」という、絵本がありますね。あのような子供が持つ自然で素直な疑問、大人でさえ答えに窮する子供の哲学ともいえる様を、“解き明かすのではなく”物語るように提示しているつもりでいます。時々招かれる批評会の時、「ものが多過ぎますね、余分なものは削ぎ落としたほうが、画面が整理されて主張もハッキリしますよ」なんてよく言うのですが、その意に反して自分の作品は、物に溢れているのが殆どです。かなり言訳け的ですが、私にとっての“もの”は、物語る語彙であり画面は語り部なのです。よって、言いたいことが多くなるごとに、物が増えていきます。俳句のように、余分なものを削ぎ落として尚、余韻の中に多くのことをイメージできることを絵画的に展開するのは、もう少し先のようです。さて今回は自作を語るトークですから、作品に込められた作者の秘密というか、たいしたものではありませんが絵そのものからはなかなか見えない部分を、エビソード的に話していきたいと思います。

「カタルシス」

  今回展示した「カタルシス」には、空(から)の鳥の巣と、雄しべも雌しべもないカサブランカと、紐で括り付けられた人物が象徴的に描かれています。次の年に描いた「ブルーモーメント」の登場人物は、闇に向かう後姿ではあるものの、巣の中には卵があり鳥の飛ぶその背景には、少しの希望のように青空がのぞいています・・・直ぐ読み取れる説明的な画面解読が可能と思います。美術雑誌や新聞、メールでの批評や感想の殆どがそうでした。私の本意がどうであれ、寺山修二が述べた、作品の半分は読者が創るものだという言葉は確かに真実であり、そうであっていいのだろうと私も理解していますし・・・。

 さて、「悲」という漢字の由来を調べると、「心」は心臓の象形文字なのだそうです。「非」とは翼であり、「扉」の如く、ひとつのものがふたつに分かれることを意味するらしいですね。つまり「悲」とは、「心が引き裂かれるような心情」を表しているというのです。ここ何年か描き続けてきた私の「翼シリーズ」の根底に、何があったかを考えるときがあります。例え無意識でも「悲」と同じような思いがあったのは、ある意味確かなような気がしています。秘して置いた方がよい事なのでしょうが、己の無意識的な心理をこんな形(言葉の由来)で明確化されるのは驚きでもあり、同時に嬉しいことでもありますが、それでも絵が語らねば言葉で繕うことも、時には必要なのではと思うのです。

 古今東西、人は自らに無い翼に、どんな思いを託していたのでしょう。翼の中に潜ませた私の思いが、少女趣味的で気持ち悪い、と理解されることの怖れはありました。解釈を相手に任せている以上仕方ないこととはいえ、見る人は自分の中に在る物差しでしか、計ることしかしませんからね。これが不本意であることに違いはないとはいえです・・・。それらの先手を打って、制作の動機が「ロリコン」とか「メルヘン」ではないことを、今回は「題名」に込めてみようと思いたちました。色々考えたのですが、悲の語句からは妥当な言葉は浮かびませんでしたが、ふと悲劇という語彙から「カタルシス」という単語が連想されました。勿論これも単なる自己防衛で、先の人への説得には為り得ませんが・・・

 「カタルシス」は「無意識化されたしこりを意識化させることによって、その囚われから解放させる」という浄化作用のことです。私の示そうとしているのは、浄化作用ではなくその「囚われた」状態そのものです。悲劇で描かれる、モチーフや登場人物の悲しみや苦悩に共感することで、心の奥底の感情が揺さぶられたり涙を流したりし、その結果開放感が得られ、癒されることをカタルシスと呼んだようです。カタルシス、それは安易にもてはやされる、明るさと楽しさのみを志向する楽観論では、決して解決できない世界があることを示しています。創造の原点が傷(創)であることを思えば、(私の作品は別としても)絵画行為に有する自己的セラピー性と、他者への表現と演繹(かつて私が自己満足と究極の自己満足と呼んでいたもの)を峻別せねばなりませんが・・・ともかく、絵画は更に深く見定めねばならない世界を有している、と言えるかもしれません。

「ブルーモーメント」

 近代絵画の父とされるセザンヌが、造形の基本形態を球と円錐と円柱に還元できる、と述べたことは、余りにも有名な話です。対象物に造形の本質的形態を見出したことは、その後の絵画造形論として多くの影響を与えました。しかしセザンヌに先駆けて、「自然は円と直線(主に三角形)で描ける」と唱えた画家が、日本におります。それが葛飾北斎であり「略画早指南」がその著作です。1812年に初編が刊行されていますから、セザンヌは未だ産まれていない時のことです。

 この作品に宗教的雰囲気を感じる方もいるでしょうが、全くそういう意図はありません。造形的には丸と四角と三角がテーマとなっています。発想の原点はストーンサークルであり、日本の灯篭であり、仙崖和尚でもあります。葉っぱのフレディに哲学性を見い出せるように、そこに宗教性を感じてくれれば、それはそれで嬉しいことではありますが。丸と四角は見れば直ぐ判るでしょうが、さて三角は? 丸が大き過ぎてバランスをとるため左画面に棒の杖を描きましたが、これは予定外のものでした。右側にも同じ描写をすれば左右対称の、完全な三角形の安定構図となります。しかしこれではみえみえであり、予定外の埋め合わせをすることは不本意ですので、杖を描くことはしませんでした。この辺の所は、画面にチョットした悪戯をしてあるのですが?最近絵の中にこんな悪戯をよくします。絵を読んで欲しいからなのですが・・。

 谷村志穂さんの「海猫」や「ナチュラル」を読んで、どうしても解せなかった疑問の回答を、その「題名」に見い出したことがあります。実はその「さすが」と思わせた同じ方法を、今回私もこの絵の中に取り入れてみました。つまり「ブルーモーメントというタイトルに、この絵の主題と三角形を託したのです。このヒントで画面上に大きな正三角形を見つけていただければ幸いですが、どうでしょうか? 絵の物語化はこれまでの私の手法ですが、その内容に触れることは、「カタルシス」のように自己愛的な饒舌家になりそうですから、今回は差し控えましょう。前述したように、寺山修司が演劇論で述べたのと同じ意味合いで、その半分は鑑賞者の方の心のなかで自由に羽ばたかせていただければ、と思っています。

詰まらない話で申し訳ありませんでしたが、絵そのものからはなかなか見えない世界があるということだけでも、そしてそれが画面効果だけの表現でなければ、いつか作者の意(無)識的意図が、見えてくるかも知れません。それで絵を観る(読む)ことが、更に面白くなるかも知れません。










2010年04月07日(水)

誤謬の訂正

 以前書いた文章でもあるが、つい最近も同様のことに出くわした。一度口に出したことを、後からつけた知恵で誤魔化すことは惨めにしか見えない。発した言葉の如く潔くあれと思う。

「誤謬の訂正」
「人はある誤りを犯したら、その誤りを素直に訂正するのではなく、無意識のうちにもう一度同じような誤りを犯すことによって、最初の誤りを訂正することがある」














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